「足るを知る」ということ

さて、千枚小屋に到着したこの日、山旅が始まって1週間と少しが経ちました。

 

その間絶えず「足るを知る」という言葉が頭を巡っていました。

 

それはきっと、旅に出るにあたって常に自分の背負う「荷物」を意識せざるを得なかったことによるのだと思います。出発前には「Tシャツは何枚要るか、パンツは、タオルは…」とあれこれ悩んでいましたし、歩き出してからは食糧や水をどれだけ持つかが大きな問題でした。

 

つまり知らず知らずのうちに、「自分に必要なモノと量」についてずっと考えていたわけです。

そして「持ち物は自分が背負っている荷物だけ」と、モノが限られた生活をする中で、普段の暮らしがあまりに「過剰」なものであると気付かされました。

 

 

たとえば、お風呂。

日本では毎日お風呂に入るのが当たり前だと思うのですが、山ではお風呂に入ることは出来ません。そこで私は毎日テント場に着くと、沢の水で濡らした手ぬぐいで身体を拭き、お風呂の代わりにしていました。

 

しかしながら、これがこの上なく気持ち良いのです。

手ぬぐいで汗を拭いたときのひんやりとした爽快感、そして一日歩いたことによる適度な疲労。たったこれだけのことで長い一日が報われるような充足感を得られるのでした。

 

 「なんだ、身体を拭くだけでも十分じゃないか」

 

それまで毎日風呂に入ることを「当たり前」だと思っていましたが、風呂に入れなくても手ぬぐいと山を歩いた満足感があれば十分過ぎるくらい。

毎日毎日、大量の水とガスや電気を消費してまで風呂に入ることもないんだなと、ふと思ったのでした。

 

 

そうして身の回りを改めて見てみると、「”当たり前”だからやっている習慣」や「”当たり前”だから買っているモノ」がどんなに多いことか。

私の生活のほとんどは「必要」よりも、「当たり前」や「見栄」によってできているのではないかと思うほど。

自分の消費活動のほとんどは、世の中の当たり前やちょっとよく見られたいという見栄に動かされているのかもしれない。

 

ただ、そうした普段の生活の「過剰さ」に気が付き嫌気がさすと同時に、なんだか身体が軽くなるような思いもしました。

 

なぜなら日々の生活や自分自身を見直し、「当たり前」や「見栄」を取っ払って、自分にとって本当に必要で大切なモノ・コトを中心に据えることができれば、よりシンプルで肩の力の抜けた生活ができるように思えたからです。

「きっと私には最低限の生活と、大好きな自然と触れ合う時間さえあればいい」。そんな気がしました。

 

一人一人が自分に必要なモノと量を理解し過剰な消費をしないこと、無理のない範囲で「足るを知った」楽しく丁寧な生活をおくること。

 

そうすることができればこの社会はもっと穏やかで住みやすく、地球にも負荷をかけすぎないものになるのではないかと、ふと思うのでありました。